アメリカン・コーヒー

1970年代の後半、まだ学生で、しばらくカリフォルニアに暮らしたことがある。サンフランシスコ郊外の大学町バークレーは、全米で最も若者文化の進んだ町と目されていたが、カフェやレストランで飲むコーヒーは、日本の喫茶店で「アメリカン」と注文すると出てくる、カップの底が透けて見えるような薄いコーヒーが常識だった。そのかわり安くて、BottomlessあるいはRefill Free、つまり「おかわり自由」。水代わりにガブガブ飲むものだった。

その後数十年でアメリカのコーヒーは、全く別の飲物になったと思う。今朝も駅前のStarbucksには店の外まで行列が出来ていた。家の近くの地下鉄駅は、近くの大きなオフィスといえばFDIC(Federal Deposit Insurance Corporation:日本の預金保険機構にあたる)ぐらいで、そんなに通勤客の多いところではない。地下鉄の中は飲食禁止なので、地下鉄に乗る前にコーヒーを買っていく人はいない。なのに毎朝、行列。

観察していると、Starbucksの周囲の道路に次々にクルマが停まる。降りてくるドライバーは、パーキングメーターに25セントコインを入れ、スタバの行列につく。5分、10分してコーヒーカップを持って出てくると、再びクルマに乗って走り去っていく。スーツ姿でオフィスに行く前にコーヒーを買っていく風の人も多いが、Tシャツにジャージージーンズの女性も多いーー子供を学校に送っていったあとにコーヒーを買いに来るのかな。スタバで2ドルくらいのコーヒーを買うために毎朝25セントをパーキングメーターに入れる。それでもスタバのコーヒーを飲みたい。

昼過ぎのワシントンDCのオフィス街。ランチを終えてオフィスに戻っていく人たちの多くがペーパーカップのコーヒーを手にして歩いていく。これも実によく見る光景。

アメリカ人はここ数十年でコーヒーを再発見したのだと思う。濃くておいしいコーヒーに恋をしちゃったんだと思う。「グルメなコーヒー」を飲むことがちょっと素敵なライフスタイルなんだと信じているんじゃないかと思う。

ネブラスカ州出身のブライアンは、実家の両親が淹れるコーヒーは薄くてまずくて飲めないと言う。「だから実家に帰るとクルマで10分走ってStarbucksに買いに行くよ。両親はボクの淹れるコーヒーは濃くて苦くて飲めないんだ」

ブライアンは現在東京で働いている。東京に赴任する前に日本語練習のパートナーをしていたのだけど、コーヒーの話のときに「日本のアメリカン・コーヒー」の話をしてあげた。

「日本の喫茶店には「アメリカン」というコーヒーのメニューがあるのよ。わざわざ薄めに淹れてくれる店もあるけど、普通のコーヒーに少しお湯を足して大きめのカップで出すところも多い。それでも、カップが大きいという理由で10円か20円、普通のコーヒーより高いのよ。アメリカンは日本ではまだ薄いコーヒーの代名詞なの」ーーそんな話で二人で大笑いした。

アメリカ人のコーヒー習慣を変えたのは何よりStarbucksだ。知っているようで知らないスタバについてちょっと調べてみると、シアトルに最初に店を出したのは1970年代の初めだったが、チェーン店として全米展開を始めたのは1980年代後半。海外進出の第一号店は東京で1996年とか。現在、アメリカ国内は1万店以上。カナダに1000店、日本は3番目に多い800店。Starbucksの名前は、メルヴィルMoby Dick(白鯨)に出てくる一等航海士の名前だ。『Moby Dick』はアメリカで教育を受ければ必ず読むであろうアメリカンクラシックスのひとつだから、誰でも耳なじみのある名前というわけ。ただStarbucksという言葉が普通名詞or動詞化して、I’m starbucking now.なんて携帯メールが届くことも。

Pick of the day(本日のコーヒー)とか一番安いコーヒーで税込み2ドルくらい。日本のスタバと違ってサイズは最小がTall。エスプレッソ類には小さいShortサイズがあるが、コーヒーはTall, Grande, Verdeの3種類。保温のきく大きなMy Mugに入れてもらってオフィスに出勤していく人も多い。

ご存じのとおり、スタバの成功で他にも数々の「シアトル系」カフェが登場した。従来からあるファーストフードチェーンもコーヒーに力を入れている。マクドナルドもコーヒーのメニューを増やした。Mac Cafeは日本でもやっていますね。 ダンキンドーナツは、いまやドーナツよりコーヒーブランドとして有名だ。スーパーのコーヒー売り場には必ずダンキンのコーヒーがおいてある。おいしいブランドという評価になっているらしい。テレビコマーシャルもしょっちゅう見る。例えば、こんなの。
http://www.youtube.com/watch?v=cbZKULIJwEE

こんなにコーヒー産業が盛んなのに、私はアメリカでおいしいと思えるコーヒーにあまり出会っていない。どこのカフェでも濃くて苦いコーヒーは飲めるが、香りのいいコーヒーにはお目にかかれない。一度だけ、ほんとに香り豊かなコーヒーをごちそうになったことがある。去年のサンクスギビングのディナーにお邪魔したお宅は、ご主人がローストしていないコーヒー豆を仕入れ、毎回ローストして挽きたてのコーヒーを淹れていた。そのコーヒーは香り豊かでほどよい酸味と甘味があって、本当においしかったけれど、色は濁っていなくて、凝った絵柄のコーヒーカップの底に描かれた模様が見えるくらいに透き通っていた。そう、「アメリカン」だった...