シャーロッツビル アメリカ建国の父たちの家へ

Mac5102010-05-09

家からクルマで2時間半ほどのシャーロッツビルCharlottesvilleに、1泊2日の小旅行に行ってきました。

アメリカはイギリスから独立するときに独立宣言あるいは憲法に署名をした人たちを建国の父Founding Fathersと呼ぶ。この中から初代から4代までの大統領に就任したジョージ・ワシントン、ジョン・アダムス、トマス・ジェファーソン、ジェームス・マディソンのうち、第2代のアダムスを除く3人が、首都ワシントンの東側ヴァージニア州の出身で、3人とも広大な農地を持つプランテーションの領主だった。

ワシントンのプランテーションはマウント・バーノンMount Vernon。首都ワシントンから車で40分くらいのポトマック川を見下ろす場所にある。ここはずいぶん前に遊びに行ったことがあったが、今回は、ジェファーソンとマディソンのプランテーションを回って、その近くのシャーロッツビルにある世界遺産にも指定されているヴァージニア大学を見て、ついでに周辺に20以上も点在するワイナリーに寄っておいしいワインを仕入れよう、というのが小旅行の目的。

願ってもない晴天に恵まれて初日スタート。まずはモンペリエMontpelierと呼ばれるマディソンのプランテーションへ。ここは彼の死後、デュポン家に売却されて増改築されたが、1960年にナショナル・トラストに遺贈されてマディソン時代の家を再現する修復が進み、一昨年に一般公開が始まったばかり。

マディソン家から買い取って増改築したデュポン家は、取り外した床材や壁材を保管してあったそうで、1800年代にマディソンが住んでいた時代と同じ間取りを当時の材料を使って再現した家を見学できる。 残念ながら一度売却されているので家具調度や蔵書の類は残っていないが、当時の家がどんな風に造られていたのか見られて、そこそこ面白い。家の周囲は、その昔は畑が広がっていたのだろうが、今は広大な緑の芝生と林で、散策すれば一日つぶれてしまいそうだ。

次はジェファーソンのプランテーション、モンティチェロMonticello。合衆国第3代大統領トマス・ジェファーソンは、建国の父のなかでも最も尊敬されている人物で、独立宣言や合衆国憲法を起草したのも彼の業績だが、何というか博覧強記の人だった。

自分で家を設計し、玄関の内外両側で時を知らせる時計の仕組みを考案し、あらゆるジャンルの本を読み、 プランテーション経営のため毎日の天候や気温を記録し、暮らしを便利にするために有効と思えば自ら実践した。観音開きのドアがちょっと触るだけで閉まる”自動ドア”を設計し(実際に邸宅のドアに使われている)、使用人(奴隷)たちの怪我や歯痛くらいは医療器具を揃えて自分で治療し、ワインを生産するために200種類ものブドウの栽培を試みたという。また、ホワイトハウスにフランス料理を持ち込むために、自分のコックをパリに派遣して料理を学ばせた。

現在は財団で管理されているプランテーションの入り口でチケットを買うと、まず15分ほどのショートフィルムを見せられる。その後シャトルバスで敷地の一番高いところにある邸宅の前庭まで連れて行かれ、20人くらいのグループごとにガイドがついて邸宅の内部を見学できる。邸宅のツアーの他に、庭や畑を解説付きで見せてくれるガーデンツアーと、彼の時代の使用人(奴隷)たちの生活を知ることができるプランテーションツアーがあったので、私たちはプランテーションツアーに参加してみた。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equalーー「すべての人間は平等であることは自明の真理である」と独立宣言に書いたトマス・ジェファーソンが、家に帰れば150人もの奴隷を使って広大なプランテーションを維持している領主であったことを、自分でどう思っていたのだろうと興味があったのです。

ツアーガイドは30代くらいの若い女性。奴隷たちの作業場や住居があったという場所を歩きながら45分のツアー中ずっとしゃべり続けた彼女は、ジェファーソンは決して良い奴隷主ではなかったと説明した。プランテーションの経営者や農園や暮らしの改良には熱心で、奴隷たちもフランス料理の勉強にフランスに行く、読み書きを覚える、新しい機械が使えるなど、その恩恵を得ていたが、ジェファーソンが生涯に解放した奴隷はわずか7人しかいなかった。

早くに妻に死なれた彼は、もともと黒人の血を4分の1しか引いていない奴隷のサリー・ヘミングスという女性と長いこと愛人関係にあって、実は彼女との間に何人も子供がいたと言われている。奴隷の子供はまた奴隷だが、子供たちは8分の1しか黒人の血が混じっていないわけで、モンティチェロを訪問した客人は「彼らは私よりずっと肌が白かった」と手紙に書いたとか。

ジェファーソンがプランテーションを親から受け継いだときにはすでに奴隷制度が始まって100年以上が経っていた。当時の経済構造のなかで奴隷を使わなければ自分のプランテーションは成立しないし、奴隷たちは領地のなかで相応に安全で衣食住の足りた生活をしていた。奴隷を解放すればすべてが片付くという構造にはなっていなかった。それでもジェファーソンは「すべての人間は平等」というアメリカ建国の精神と矛盾することには、解決策が見つからないと悩んでいたという。

200〜300年しか歴史のないアメリカでは、建国の父たちの家を見学にいくのは、日本人が京都や奈良に史跡を訪ねるのと同じような感覚なのだと思う。アメリカの建国の父たちが、政治を取り仕切るだけでなく暮らしの隅々までアメリカという社会をどう作り上げるか腐心していた様子が分かって、とても興味深い時間を過ごしました。

写真はモンティチェロMonticello。5セントコインの裏にも描かれているジェファーソンの家です。