日本から学ぶーー金融危機にしてはならないこと

What Not to Do in a Financial Crisis__U.S. Learns From Japan

アメリカが日本の二の舞になるのを避けるには?
アメリカの金融危機を救うために、20年ほど前に破綻した経済が回復せず経済政策の落とし穴にはまっている日本と同じ道を歩まないよう、アメリカの当局者たちは積極的に対策を検討している。日本は、世界第2位の経済が不動産と証券バブルで崩壊した際、政府が対策を間違って金融危機を悪化させたというのが、多くの経済アナリストの一致した見方である。
その結果、日本の経済パワーと国際的な影響力は、今日まで先細りが続いている。1990年から2005年に66パーセントも下落した日本の住宅価格は、1990年の価値の40パーセントまでしか回復していない。東京市場の日経インデックスは、1989年の最高値に対して70パーセントも下落したまま低迷している。

日本はもっと積極的に市場介入すべきだったと言ってきたアメリカ政府は、いま、その主張を実践に移しているようだ。日本よりはるかに透明度の高い金融システムによって、アメリカの銀行は不良債券の額を隠蔽することができず、ウォール街で歴史的な成長を謳歌してきたいくつかのアメリカ金融の巨人に対する最後の審判を加速させている。結果として、主要アナリストたちが言うように、日本が抜け出せずにいる長びく不況に比べて、はるかに短い”発作”のような危機で済むことになるだろう。
アメリカは、日本に比べ”ドッグイヤー”(7年分が1年で進む)で動いていくだろう」と分析するのは、パターソン国際経済研究所の所長代行で日本の経済危機に関するアメリカ政府のコンサルタントを務めたアダム・ポーゼン。「アメリカの1年のアクションが日本がとった措置の7年分に相当する」

日本とは大きく異なるアメリカのアプローチは、偶然の産物ではない。
アメリカの当局者たちは、日本がその間違いを正確に理解して対策を正しく舵取りする助けになることを願って、日本に積極的にアドバイスを求めてきたのだ。ここ数年、アメリカの当局者たちは日本の当時の、あるいは現在の当局者たちと頻繁に会って話をすることで、幅広いアドバイスを受けてきた。
「昨年の7,8月に経済が混乱したときにも、彼らと数週間のうちに話をした」と語るのは、財務省の国際問題担当の副長官、クレイ・ロワリイ。政府スタッフは、いくつもの国の当局者と密接に連絡を取り合っている。例えば、そのなかのスエーデンは、1990年代の金融危機に際して比較的手際のよい対応をしたことで評価が高い国だ。
日本とも「彼らの抱える課題や問題について話をしたかったのだ」と彼は語る。
日本の当局者が金融危機に何をすべきでないかについて語り、最初は問題の存在を認めようとせず、その後ようやく対策を講じても時間がかかり、しかも不適切だったと批評家は批判する。当時はプリンストン大学エコノミストで現在はFRB議長のベン・S. バーナンキも、日本の政策を批判した一人だ。

アメリカの政策が日本のそれより効果的だと判断するのは早すぎる。太平洋の両側のエコノミストたちは、最大の問題はまだこの先にあると警告する。全米の地方銀行、中堅銀行の体力を危惧し、政府当局が不良債券の完全公開と業界再編のシナリオを発表するまで判断を保留しているエコノミストは多い。
しかし、日本からは、ベアスターン証券を売却し、ファニーメイフレディマックを政府管理下におき、メリルリンチとリーマンブラザースに対して金融市場を強化する手を打った一連のアメリカ政府の対応に、日本政府が1990年代に不良債券を放置して長いこと銀行を苦しませて経済を火だるまにした政策と比べて、そのスピードを賞賛する声が届いている。

「日本の金融危機に対する対応はよくなかった。これはある意味で、アメリカに何をすべきでないか、反面教師になったと言えるだろう」と語るのは日本の代表的エコノミスト慶應義塾大学教授の竹森俊平だ。「選挙の年には、日本の常識では、それが必要だとわかっていても、ファニーメイフレディマックに投入したような巨額の公的資金を動かすことはできなかっただろう、それをアメリカはやってのけた」

日本の金融危機アメリカが現在直面しているものと、はっきり違う面もあり、忘れがたいほど似ている面もある。どちらの国も不動産バブルがはじけ、そのために銀行が抱えた不良債券を精算する必要に迫られて経済が破綻した。1980年代後半の日本のバブルは、東京の皇居のある土地の価格はカリフォルニア州のすべての不動産価格の合計を超えると言われ、アメリカのバブルよりはるかに大きかったという人も多い。しかし、2006年をピークにしたアメリカの住宅価格の急上昇は、日本の金融危機時の急上昇よりはるかに早いペースで進んだ。
もうひとつの違いは、日本の不動産バブルは企業向け不動産の高騰がきっかけで、これが企業業績とリンクした。多くの日本企業が投機的な不動産投資に走って、その企業の市場価値を実体より急速に押し上げてしまった。1990年に不動産バブルが弾ける1年前に、日本ははるかに破壊的な株式市場の崩壊を経験している。
さらに、日本の致命的な間違いは、多くのエコノミストが今では言っているが、政府当局が巨額の不良債券に真正面から取り組まなかったことだ。銀行に不良債券額の隠匿を奨励した例すらあった。こうした政策が、日本の銀行とその顧客の不良債券をさらに悪化させて弱体化させたばかりか、銀行が健全な顧客に対する新規貸し出しを阻んだ。

多くのアナリストが、1997年の山一証券の破綻が、日本の当局者が不良債券の精算に着手するターニングポイントになったと見ている。徹底的なバブルの精算はさらに遅れて2001年に小泉純一郎自民党総裁に選ばれるまで始まらなかった。小泉は、その改革の方針を竹中平蔵を担当大臣に据えて実践し、銀行の不良債券処理を進めた。
日本の経済は2003年に回復に向かい、成長が戻ってきたように見えるが、不動産価格と株式価格はどちらも回復してはいない。ある程度、日本の経済はいまでも混乱のなかにある。人々は、1980年代にバブル崩壊とともに消えた”経済”に変わる、新たな日本のアイデンティティを探し求めている。
「この山の向こう側にさらにヒマラヤ山脈が控えていることにアメリカは気づいていないようだ」と1990年代に日本銀行の幹部を務め、現在は東京の文教大学で教授を務める渡辺武は言う。「アメリカは、この金融危機が終わるまでにさらに多くを乗り越えなければならないだろう」